●神仏霊場巡拝の道 第83番(京都3番) 城南宮 〒612-8459 京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町7 TEL:075-623-0846 HP:城南宮HP、ウィキペディア |
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2012年の大晦日。
雨が降りしきる中、初詣の準備を進める城南宮へと参拝に行きました。
年が明けると大勢の初詣客が押し掛ける神社も、この時期は閑散としていて見やすいですね。
歳の瀬の神社、そして年明けの寺院は、参拝もし易くて大好きです。
城南宮は、京都五社の一つにも数えられる由緒ある神社。
その創立年は不明だそうですが、平安時代には京都の南方守護の役割を担っていたようです。
また、この神社は幕末の鳥羽伏見の戦いの拠点の一つであったことでも有名です。
城南宮(じょうなんぐう)
平安遷都の際、都の南に国の守護神として創建され、国常立尊(くにめとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)をお祀りする。平安時代の末、この地に白河上皇によって城南離宮(鳥羽離宮)が造営されると一層崇められ、城南祭では流鏑馬や競馬が行われた。
また離宮は方違えの宿所や熊野詣での精進所となり、方除(ほうよけ)の信仰が高まった。承久三年(1221)、後鳥羽上皇が城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を集め、鎌倉幕府との間で承久の乱が起きたことは名高い。
江戸時代以来、城南祭では三基の神輿が氏子地域を渡御、「餅祭り」とも称されて大いに賑わう。皇室の崇敬厚く、孝明天皇は攘夷祈願の際に行幸されて吹散を賜り、慶応四年(1868)正月、城南宮に陣を構えた薩摩藩の大砲が轟き、鳥羽・伏見の戦いが始まり、明治維新を迎えた。
日・月・星を象った三光の御神紋は神功皇后の旗印に因んで広大な方除の御神徳を表し、建築・転宅・交通・旅行安全の神として信仰が深い。
神苑「幸水苑」は「源氏物語 花の庭」と称され、四季の風情に富む名園として名高く、春秋に「曲水の宴」が雅やかに行われる。京都市
鳥羽伏見の戦い跡
ここ城南宮から、明治維新を決定づける戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが始まった。
慶応三年(1867)12月9日の王政復古の大号令で幕府は廃され、前将軍徳川慶喜は12日に京都の二条城から大坂に退いた。しかし、新政府側の薩摩藩の行為に憤激し、慶応四年正月2日、旧幕府兵および会津・桑名両藩の兵からなる大軍が大坂から京に向かった。
これに対し朝廷では、薩摩、長州、土佐等諸藩の兵を鳥羽と伏見に繰出し、鳥羽では城南宮から鳥羽街道の小枝橋に至る参道に、伏見では御香宮(ごこうのみや)神社附近に陣を構えた。
翌1月3日、都を目指し鳥羽街道を北上する旧幕軍は、ここ城南宮から南南西500メートルの地点に達し、入京を阻止する薩摩軍と長時間対峙した。夕闇が迫り強行突破の構えを見せるや、城南宮の参道に置かれた薩摩軍の大砲が轟き、続いて伏見でも両軍が衝突、激戦となった。
4日も下鳥羽から伏見にかけて戦闘が続いたが、仁和寺宮嘉彰親王が錦の御旗を奉じて御所を出陣との報が伝わり、官軍となった新政府軍の士気は大いに高まった。
5日、錦の御旗は鳥羽街道を南に進み、旧幕軍は淀、八幡へ退却、新政府軍の勝利が決定的となった。こうして新しい時代が始まったのである。京都市
歴史の節目に重要な役割を果たした神社だったようです。
こちらは、頂いたパンフレットです。
【パンフレット】
さて御朱印は、こちらの御本殿のそばの御朱印所で頂くことができました。
御本殿向かって左側にあります。
先ほどの看板に書かれていた、日・月・星の三光の御神紋が描かれています。
綺麗な御朱印です。
先ほどの看板で、鳥羽伏見の戦いの拠点として挙げられていた城南宮。
こうなると、もう一つの拠点であった御香宮神社にも行きたくなってきました。
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