●洛陽三十三観音 第22番札所 瑞宝山 城興寺 〒601-8016 京都府京都市南区東九条烏丸町7-1 TEL:075-691-3614 HP:城興寺HP、ウィキペディア |
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東寺を参拝した後は、九条通を東へ。
早速、購入した洛陽三十三観音専用御朱印帳に御朱印を頂くためです。
そしてやってきたのは、洛陽三十三観音の22番札所、城興寺。
写真の門前には、城興寺の御由緒が記載されていました。
城興寺
瑞宝山と号する真言宗泉涌寺派の寺院で、洛陽三十三所観音めぐりの第二十二番札所となっている。この地は、太政大臣藤原信長の邸宅であったが、知足院関白藤原忠実が伝領して、永久元年(1113)に寺に改めたといわれる。
創建当初の規模は明らかではないが、寺宝に有する境内伽藍図には現在の烏丸町全域にわたって寺域としていた様が描かれている。
当初は、四宗(顕・密・禅・律)兼学の同上であったが、のちに天台宗となり、天台座主最雲法親王の没後、その弟子の以仁王が当寺を領した。その後、治承三年(1179)、平氏によって寺領を奪われ、このことが、平氏討伐の挙兵の一因になったと考えられている。中世を通じて、延暦寺の管理に属したが、応仁の乱後、衰微し、現在は円仁の作と伝えられる本尊千手観音像を安置する本堂のみが残っている。京都市
この御本堂が、冒頭の写真のものです。
御朱印は、この本堂右側の御朱印所で頂くことができました。
それからこのお寺の境内には、お稲荷さんもあります。
病気平癒と夫婦円満のお稲荷さん
薬院社の由来
薬院さんの名で親しまれている当「薬院社」は元の名を施薬院稲荷といいます。
平安の昔、当地の西200m(東九条中殿田町)の地に施薬院がまた北100m(上殿田町)には施薬院御倉がありました。
施薬院は奈良時代、聖武天皇と光明皇后が創始された医療と施薬の役所で、今日の病院と福祉施設を合せた施設でした。平安初期左大臣藤原冬嗣が私財を投じて彼の地に施薬院を開設し、以来摂関家藤原氏の支援に依って維持、運営されました。しかし鎌倉初期これらの施設は他処へ移転し、御倉跡の「薬院の森」には施薬院稲荷の祠が残り、以来地元・東九条の人々が村の鎮守さまとしてあがめ親しみました。
明治になって、廃仏毀釈運動に続いて辻堂廃止令が発布され明治十一年(1877)、施薬院稲荷も廃止の憂き目を見るところでしたが、地元農民の熱意により当、城興寺の陀枳尼天堂に合祀されました。
陀枳尼天は、もともとヒンズー教の性愛の神でしたがインド仏教にとり込まれ、中国、日本と伝来するうちに天部の一人とされ俗に女稲荷とあがめられる仏様になられました。
施薬院稲が陀枳尼天、いわば婿入りされたわけで、以来二躰のお稲荷さんは仲睦じく鎮座して夫婦円満を示現され、医療・施薬をとおして、私たちの健康で稔り豊かな明日を願いつつ見守っておられます。
夫婦は仲良くして下さい。それが幸福の根本であります。(当山住職)
摂社 次郎吉稲荷 大銀杏の元に鎮座するお稲荷さんで、あなたの唯一の「願」だけ叶えて頂ける神さまです。(城興寺境内)施薬院稲荷・薬院社 奉賛会
「夫婦は仲良くして下さい」
・・・はい、気を付けます。
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