●坂東三十三観音 第2番札所 海雲山 岩殿寺 (岩殿観音) 〒249-0001 神奈川県逗子市久木5-7-11 TEL:046-871-2268 HP:ウィキペディア 拝観料:100円 |
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鎌倉でハイキングをしている途中に、坂東三十三観音のひとつ岩殿寺に参拝しました。
山あいの、奥まった斜面に寺院が佇む姿はさすが鎌倉。
すごく風情のある感じ。
岩殿寺縁起
相州三浦郡久野谷郷(神奈川県逗子市久木)海前山岩殿寺(現在は海雲山となっている)の由来は皇統四十五代の聖武天皇の勅願による大和の国(奈良県)の長谷寺の開山本願徳道上人が、この地に下向されたときに始まる。
それゆえ、当山は徳上、行基両聖人の開基といわれている。また、大悲殿前から南海を見渡せるので、山を海前(現在は海雲山)と名付け岩窟が自然の殿堂のようであったので、寺を岩殿寺と号したといわれる。
正暦元年庚寅春3月17日六十五代花山法皇が来山され、ご自身導師となられて百僧法要御供養を営まれた。従僧は仏眼上人、弁光僧正、良窓上人、元密上人、伝光僧都、満願上人、威光上人であった。
また、承安4年4月18日七十七代後白河法皇が来山され、ここを坂東三十三ヶ所第二番の霊場とお定めになった。なお、源頼朝が蛭ヶ児島にいた頃、文覚上人の勧めで、当時の本尊を篤く信仰し、夢に現われてお告げを蒙ることがしばしばであったという。戦乱の折、敗色濃くなってからも、大悲の冥助を幾度も得て、立直れたというが、なかでも石橋山敗軍のときは、観世音が船人となって頼朝を房州洲崎に渡し、たちまち十一面観世音の妙容をあらわして、三浦の方にとび去ったという。頼朝は御報恩のため御来印を下賜され、治世の間は毎月欠かさず参拝されたという。文治3年正月23日には頼朝公の姫が参詣。建久2年子の3月には三浦義澄同六兵衛義村参詣。建久3年乙末の2月23日には頼朝公幕下参詣。建久3年巳卯の5月8日には御白河法皇四十九日の御仏事のため百僧集まり参詣。この折に南堂を補修する。承元3年5月5日には右大将実朝将軍参詣。寛喜2年11月11日、大破せる伽藍再建のため、大僧正院家並び12院の別当が日夜法要を修行され、そのとき、鎌倉殿の命に依り僧西願に勧進して堂宇を再建、三代盟主37日昼祈念したことが「東鑑」にも記されている。
しかし、その後もまた、ものかわり星うつりて七堂伽藍も荒廃し、寺院の面目もなかったものを東照神君(徳川家康)の御仁徳により境内ならびに田畑山林と御朱印を賜り、その徳沢に潤い、天正19年11月には県令長谷川七衛門長綱が花厳なる堂宇を再建し、且つ申し請けて寺領5石の御朱印を賜わったという。(以上「東鑑」「三浦群誌」「相模風土記」および土地旧家覚之書による)
本堂に向かって斜面を登り、そして振り返ると・・・
秋色に色づいたナナカマドの向こうに海が見えました。
ここからの眺めは素敵です。
逗子市指定重要文化財
岩殿寺観音堂指定年月日 昭和46年12月23日
岩殿寺は坂東三十三観音札所の第2番で、縁起によれば、養老年間(717〜724)行基が開創し、花山方法や後白河法皇も来山されたと伝えられる古刹です。また、鎌倉時代には将軍家の信仰が厚く、『吾妻鏡』には頼朝、政子、実朝らが参詣したと記されています。
現在の観音堂は、棟札によると享保13年(1728)に時の住持 萬英和尚が勧進により再建したもので、造営の大工は鎌倉の蔵並杢之助藤原政吉と工匠清右衛門でした。
桁行三間、梁間五間の寄棟造で比較的小規模なものですが、中世以来の伝統的な密教本堂形式をとりつつ、細部の構造は18世紀前半の特徴をよく反映しています。
当堂は単に逗子市内の古建築であるだけでなく、鎌倉地方の近世建築の様式的展開を知る上で一基準となる重要な建築であると考えられます。
なお、昭和63年の修理工事により、茅葺から銅板葺となりました。逗子市教育委員会
さて御朱印は、入口入って左側の納経所で頂きました。
坂東の御朱印は、味があっていいですね〜
この日のハイキングはまだまだ序の口。
これから建長寺に向かって、鎌倉の山道を歩いていきます。
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